7月31日;文匯報


 電車男のこのインターネットの事件は最近映画になった。これは小資本での投資ではあるが、かなり若者の人気を博した。いまの映画観衆の中で、彼らはかなりのウエイトを占めているので、日本での興行成績はかなりいい。土地が狭いところに、人が多いため、日本の大都会の鉄道系統は非常に発達しているが、一つの後遺症は、ラッシュ時の大変な混雑であり、それは犯罪者、スリ・痴漢などにつけこむ機会を与えた。電車男の物語はこの背景のもとに生まれた。


 1人の朴訥な青年(今は電車男と呼ぼう)が正義感をもって痴漢にねらわれた女の子を救った。その後、相手は電車男とデートをすることになるが、電車男はそれがお礼のつもりなのか、それとも本当に彼に好意を持っているのか判らない。デートするべきかどうかためらっている。このことはインターネットの掲示板で広がっていく。ネット仲間は次から次に意見を書き込み、彼にいろいろな計画のアイデアを出す。その中には、励ますものもあり、止めるものもあり、ある人たちは自分の経験だけを言い、ある人たちは激しい感情に満ちている。


 電車男はついにデートに赴き、帰ったあとも、その過程をまた掲示板に書き込む。すると、またさらに反応を引き起こす。そして、彼と彼女の物語はまた発展していく。今日の観衆にとって、このような純情な物語は、実はあまり吸引力が無い。しかし、なぜ電車男の事件がこんなに大きな反響を呼ぶのだろうか?これは対話方式の要素によるものだ。実はこのような対話方式の物語は新しいものでもなんでもない。インターネットが流行する前からすでに、いろいろな場面やストーリーを含んだ小説を書いている人がいた。それぞれの章が完結する時に、読者にいくつかの違った選択を提供し、たとえば、「選択1の方は5章へ」「選択2の方は8章へ」などなどと、このような謎解きの方法を通してお互いに相互連動感覚を持ち、読者も創作に参加しているという自覚を持つように試みていた。


 映画において実験的な試みをした人もいる。まず2、3の違うバージョンの結末を撮っておき、ラストになった頃、観衆が座席のそばに設けられた投票機を押し、映画館は最も多くの人が選んだ結幕を上映する。しかし、小説にせよ、映画にせよ、この「対話方式」は、作者が設けた解答から選択するものにすぎない。しかし、電車男事件の対話の結果は、誰も予告できないものだから、人々を引きよせるのはそういうところにあるのだろう。