追求卓越〜家輝のエッセイより

教育問題や社会風潮にも物申す家輝さまは、新聞紙上でディズニー&ピクシーの新作映画「Mr.インクレディブル」の映画評をご覧になり(お忙しくて、まだ映画を見るひまはないようですね)、そこからまた色々と思いを巡らせて、これはいかん!とカツを入れているようであります。ちょっと訳はまずいですが、なんとなく彼のニュアンスをお感じください。

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「エリート追求」
ウォール・ストリート・ジャーナルのある映画評論を読んでいて、大いに考えさせられた。作者はピクシーの新作映画「Mr.インクレディブル」を紹介し、どうしてこの映画が米国で上映された際、大いに人気を博したか分析している。映画評論の立場で一般的に言うと、ほかでもなく物語の筋にすきがない、ピクシー・アニメーションの神業のような技術による、ストーリーのユーモアが面白いなどである。しかし、この作者は社会現象の立場から論じていて、すこぶる啓発性がある。すなわち、彼は米国の社会が近年あまりに平衡に重きをおき、反エリートで、学校で行われる試合も、賞の多くは「肉の分配」方式で(順位をつけないこと)、しかし、人に求めるときは褒美をつけ、学生が不機嫌にならないようにする。

椅子取りゲームでさえも、聞くところによると心理不安を招くことになりかねないのでできる限り避け、学校の成績はほとんど点数で示さず、学生が嫌うレッテルを貼るということを避けている。しかし、私が中学(高校)生の頃は、試験の上位10名は新聞に載ったのだ!

 「Mr.インクレディブル」の中では、誰もがすべてスーパーマンであり、それはすなわち誰もがすべてスーパーマンではないということでもある。「反エリート主義」という主流思想がひっそりと黙すると、また人々は皆、英雄になりたいという夢想に満足した。その両面性が人々の歓心をかい、映画はヒットした。 云々。

 この文章を執筆した時、私はこの映画をまだ見ていない。また米国と香港の社会環境は違うので、あえて論評はしない。しかし、近年「楽しく学習する」という言い方が流行していることについては、筆者はいい加減に同意することはできないのだ。功成し遂げたスポーツ選手が、毎日どれだけの時間練習するか、どれだけの心理圧力に耐えているか、どれだけ私生活を犠牲にしているか、知っているだろうか?またオリンピックで金メダルを獲った選手の多くは、ほんの10歳余りの子供である。どうして社会は彼らが国の栄誉を高めたことだけを褒めたたえ、訓練がどうだったかということを言わないのだろうか?スター級の音楽家は、毎日音楽を除いてもやはり音楽であり、そうでなければ、どうして全ての人の偶像になりえようか?もしエリート追及が間違いだとされるならば、社会はいかにして精鋭を育成訓練するのだ!

 確かに、安逸をむさぼり働くのを嫌うのは人情の常であるが、しかし、学生時代保護を受け、競争を免れた学生たちが、いつか真実の世界に適応することができるかどうか、私達は深く考えるに値する。どんなときも、訓練はすべて苦しいものだ。もし皆さんが依然として子供たちに「1分の努力、1分の収穫」を教えるならば、本を読み学び少々宿題をすることをかえって必要とする。圧力がなく、よい成績をとっても褒められない(成績が悪い者が卑屈にならなくてすむ)、それが自己矛盾というものだろう。