広東語の日

 今日は広東語の先生に会って2時間フリートーキング。といってもしゃべるのはいつも8割方先生。とほほ。私の先生はまじめで堅いおじさんタイプなので香港映画の話とかは全然興味なく、中国現代映画上映会にかかる文芸作品くらいならまあ見ている程度。日本語はベラベラなのに、まだ研究熱心で、毎回読んでいる本の中からいろいろな質問を見つけて投げかけられる。たとえば「大」の読み方の違いとか、「きっちり」と「きっかり」の使い方の違いとか、「一途」と「一路」の違いとか、「闇にすかして」がなぜ「闇を」ではいけないのか、とか・・・数え上げたらきりがないほどいろいろな疑問に溢れていて、毎回私も「え〜?」と即答に困る質問も少なくない。日本人であってもなんとなく使っている言葉って意外に多いんだなと逆に気づかされる。本当に勉強熱心なのだ。
 そんな先生がこのところ毎回悩んでこぼされるには、週に一度教鞭をとられている某大学の学生たちがまったくやる気がなくて毎回授業中机にうつ伏せて寝ているのだそうだ。これには、超がつくほどまじめな先生のことなので、あきれる以上に頭にきたそうで、先生であるより以前に親の気持ちになって学生たちに注意したそうなのだが、それが反感を買ったのか、ますます学生たちが態度悪いらしく・・・。「彼らを集中させる何かいい方法ありますか?」ときかれるのだが、やはりもっと学生が興味を持つような内容を取り入れてみたら、としか、私も答えようがない。(実はこれは本当に一番重要な問題だと思うのです。面白い先生や授業なら誰も寝ません)

 語学を勉強するのは本当に辛気で地味な作業。1人で繰り返し練習する時間が最も大切なのだから、授業中寝てたところで、彼らが自分で一生懸命勉強しているなら、それはそれなのだが、まあ、そんな人なら授業中も寝まい。多分やる気がない人はどんなときもやる気がない。たとえ本気でやりたいことには目を爛々と輝かせていたとしても、中国語には興味がないのだろう。学生は特に単位を取ることが重要だろうし、大学側も学生はお客さんだろうからあまり厳重ではないのだろう。自分自身の昔を思い出してみても、この学生さんたちをどうこう言う資格はない。
 でも、社会人になって、それもまあまあの年になって、自分でお金を出してまで語学を勉強しようと思い立つ人には必ず明確な目的がある。人によって違うだろうけど、それは必ずあるはず。そして継続するためにはやはり時々目的の確認をしなければならない。何でも思い立ったときに始めて間に合わないことなどないとは信じたいが、やはり人間の脳にも奇跡よりは限界というもののほうが現実的で、砂漠に水が染み込む如くに何でも覚えられる若さがいつまでもあるはずもない。
 そういうふうに努力してる人から見ると、きっと件の学生さんたちを、もったいないなあ、と思うことだろう。うかうかしていると、あっという間に時間って経ってしまうのだから。