只聴不説〜梁家輝のエッセイより

家輝さまの今日のお言葉です。
殿、相変らず、うまいです。そして最後の数行がなかなか深いです。ううむ。

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私は座って、時間をたっぷりかけて、一杯のお茶に砂糖とミルクを入れる。その後、彼に向って問う。「今日君はなにを話したい?」彼は私に去年スペインで舞踊を見た経験を語る。小さな劇場の裸電球に始まり、年とって太った頭髪の薄い舞踊家が、いかに熟練した踊りと人を圧倒する魅力で満場の拍手を浴びたかまで、ゆっくりと詳細に語ってくれる。

私は一口ミルクティをすすって、別のほうへ向う。一人の若い学者は私に興奮して告げる。人類はDNAを複製する方法を発明した。もしさらに発展するならば、今日不治の病とされている大部分の病気を治せるかもしれない。私は自然科学は好きだけれども、あまり専門的なテーマは理解が難しいように感じ、特に、朝起きたばかりの時は、実際あまり神経を使いたくない。だからちょっと聞いた後、ほとんど毎日会っている友人に向かい彼の社会大事件に対する見解を聞いてみる。

最後に、もう一人の友人が、宋江を今日のある経済界の大物にたとえ、その会社の買収活動を梁山泊の英雄たちの身分にたとえるのを聞く。この論説はかなり無理があるが、しかし、とても新しい面白い解釈だ。

私は最後のお茶の一口を飲み干し、腰を伸ばし、新聞を閉じて、着替えをして外出の準備をする。

や、そうだ、言い忘れるところだった;以上は精鋭が集まる研究討論会などではない。これはただいつもの新聞を読むことで、ほとんど毎日発生していて、皆さんも必ず経験したことがあるはずだ。(あなたは今まさに新聞を読んでいるでしょう?)自分のいちばん好きなリズムで、いちばん快適な場所で、いろいろな友人が違った話題を語るのを聞く。その代価に支払うのは、たった半杯のお茶だけ。世の中にこれより採算のとれることがあるだろうか?

中学校以来、私は毎日新聞を読む習慣を身に付け、長年途絶えたことがない。たくさんの面識のない作者は、皆よく知っている友人になった。作者が良い成績を出したら心から喜び、もし作者が不幸にも失敗したら私も残念に思う。

作者に手紙を書くのが好きな人がいて、褒めたり、けなしたり、はなはだしきに至っては全く関係のないことまで書く。私はものを書くのは好きだが、いまだかつて作者に手紙を書いたことはない。相互の連動感が好きな人もいれば、むしろ沈黙した読者となって、ただ聞くだけの楽しみを享受するほうがいいと思う人もいる。